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2022.06.17 | コラム&社員インタビュー《55周年》

【55周年記念コラム】Series1(1)

お陰様でカドリールニシダは今年で創立55周年を迎えました

この節目に当たり、現在まで長年カドリールと歩んできてくれたパタンナーやデザイナーに感謝の気持ちを込めて、バトン形式でカドリールでの思い出や今後への期待を語ってもらうコラムを掲載致します。
それぞれのカドリールでの思い出とともに、当社の歩みを感じ取っていただければ幸いです。
第1回目のシリーズは、勤続36年の営業企画室室長 蛭川伸子氏にカドリールとの歩みを語ってもらいました。
お話は、まだ女性下着の会社が少なかった時代から始まります。

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  • Profile 蛭川 伸子(勤続36年)
    1985年入社、デザイナーとしてデザイン室勤務。
    1990年よりデザイナー兼マーチャンダイザーとして、市場分析や得意先に向けた企画提案にも携わるようになる。その後、中国での事業展開における商品企画から販売員指導まで幅広く担当。
    2004年からツインクロス商品の販売でQVCジャパンTVショッピングに出演し、カドリールの顔として商品のこだわりを伝え続ける。
    現在は営業企画室長として、業界全般のリサーチやマーケティング視点を持ったMD業務を担い、新規得意先開拓や新たな企画開発提案に取り組んでいる。

§1 カドリールニシダとの出会い

aspengrovestudios iconはじめに

今回のコラムを寄せるにあたり、現在の仕事に携わり、これまで長きにわたってお世話になった月日を懐かしく振り返ることが出来ました。それにより今また改めて、新鮮な気持ちで仕事に取り組めていると感じております。良い機会を頂いたことに感謝申し上げます。

aspengrovestudios icon入社当時の記憶もろもろ

私は、幼いころから興味のあったファッションデザインやパターンメイキングを学び、アウターアパレルでデザイナーとして働き始めました。 1970年後半~80年代のファッション産業は右肩上がりで伸びていて、欧米に倣って既製服業界が発展した時代です。今とは違いパソコンも、インタ―ネットもない・・様々な情報に飢えている時代でした。

そんな中、母校の専門学校から要請を受け、ファッションデザインや、立体裁断・パターンメーキングを受け持つ講師となり、並行して業界向けにトレンドカラーやデザイン情報をまとめ、会員向け情報誌づくりに加わってセミナーを開催するなど、アパレル企業への企画コンサルティングにも携わりました。

多くの企業の間では第1次【CIブーム】が起こり、競うように企業理念の見直しが行われ、ロゴマークが一新されたりしました。西武百貨店の『おいしい生活』というコピーが象徴するように、より良い暮らしを求めていた時代です。ファッション界ではデザイナーズブランドやキャラクターブランドが多く誕生しました。「東急ハンズ」や「無印良品」もその時代に出来て、青山1号店へリサーチに行ったことを覚えています。そして1985年、結婚を機にご縁があってカドリールニシダに入社、ファッション情報や企画、アパレルでの経験は、長くお世話になるカドリールニシダでの仕事におおいに役立ちました。


  • 1985年頃購入した思い出のDiorのスリップ。当時おしゃれな下着はインポートショップでしか見つけられなかった。 
  • 入社した頃は「京都の下着メーカーに就職したよ!」と友人に言うと、必ず「あ、ワコールさん!?」と
    返されるほど日本の下着メーカーが少なかった時代
    でした。おしゃれな下着はインポートショップでしか買えないし、アメリカやヨーロッパのブランドから選んでいたんです。ちょうど私が結婚するときに揃えたランジェリーは、ディオールの透けた葡萄刺繍が美しいシリーズで、ブラからスリップなど一式揃えたものです。今でもしゃれたデザインで繊細な手作り感が漂っていたのを覚えています。
  • ブラジャー(特にインポート)の多くは、カップ部分が1枚もの(不織布やモールドのカップが無いもの)で、ワイヤーが入っているタイプが多かったのですが、日本人の体形に合っていたかというと疑問です。その頃の日本人のバストサイズの中心ボリュームはBカップでしたし、入社してからしばらくはカドリールニシダのパターン検討の基本サイズもB70でした。市場で販売している製品の多くはABCカップ展開が主だったと思います。今はそれがCからDカップ、Eカップへと拡大していますので、体格も体形も大いに違っていました。

  • 当時の日本人のバストサイズの中心はBカップだった。
  • 当時のカドリールニシダは、今と同様にブラジャーを主力に生産・納品していたのですが、印象に残っているのはスリップやランジェリーアイテムの多さです。記憶のひとコマに、旧本社の1階検品場で、納品のために社長を含めた社員総出での作業をしたことがあります。おそらく納品までの時間がないためだったのでしょう・・スリップの裾レース裏に残る生地を皆で小さなハサミでカットしていたんです2㎜残しとかで切るんです!そして印象深かったのは、西田社長(現会長)が大変上手に、また誰よりも早くカットされていたことです。現在は、素材も進化して機能に優れたインナーが主流ですが、そのころは中学生くらいになるとほとんどの女性はスリップを着ていた記憶があります。身だしなみのひとつというか・・必需品でしたので、店頭にもたくさん並び多くの引き合いがあったのだと思います。

次回は、デザイン室勤務のころへと続きます。

【第2回 繊細な手作業から始まったデザイン室勤務】こちら
【第3回 ツインクロス誕生】こちら
【第4回 ツインクロス拡大】こちら
【第5回 今後も提案力のあるOEM企業であり続けたい】こちら

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